映画『パラサイト』

 
『パラサイト』は、なかなか良かったと思いました。
星は三つ半くらいでしょうか。いや、三つくらいでしょうか。
面白かったと思うのですが、アカデミー賞作品賞などといって大フィーバーするほどのことでも・・・と思うのですが。そこが問題です。

ジョーダンピールの『US』や『ゲット・アウト』に類して、寓話的というか、よーするに「世にも奇妙な物語」みたいな。
それもよいのですが、それだけだったらテレビで30分くらいで描けてしまうやん、となります。したがって、本編のさいごで、豪雨がやってきて貧民街のほうへ水が流れおちてゆくシーンなどが重要になってくる。迫力がありました。あの水はなんだろう・・・。逆トリクルダウン。「うえから落ちてくるのは、泥水ばかり」。

そういえば、もう七、八年前になるけれど、NHKスペシャルでこんなのをやっていました。
日本人のIT長者がシンガポールに住んでいる。税金がすくないから。フェラーリに乗って朝食を食いにいく。朝飯のために1時間も車をとばして隣のマレーシアまで行く。そこで一杯数百円のラーメンを食べる。
核心をついたレポートでした。
富はうえから落ちてこない。
企業が潤えば国全体が潤う、というのは、政府も一緒になってまき散らした大嘘なのだ。
そんなこと最初から分かっていたのに!
『パラサイト』も『ジョーカー』も『US』もいいけれど(僕は『万引き家族』観ていません・・・。観ます!)、そんな、フェラーリで数百円の朝飯を食いにいく鬼畜の映画をつくってもいいんじゃないでしょうか。

さて、映画で一番印象に残っているのは、ソンガンホ演ずるお父さんがリビングルームから脱出するシーン。社長と社長夫人が寝ている傍のテーブルの下に隠れていて、そこから匍匐前進(ほふくぜんしん)で、逃げる。
ハラハラさせられる。
なぜか分からないけど、ひさしぶりに映画を観てハラハラドキドキさせられた。子供のころには、映画とはそういうものだった気がするのだが、最近は少ない。僕が大人になってしまったからだ。
このシーンで、監督から「ほらね、映画ってこんなに楽しいものでしょう? こういう要素もなければ映画っぽくないよね」と優しく語りかけられているような気がして、とても有り難い気分になった。
ただただ居間で中年男が身体をひきずりながら前に進んでいるだけのシーンなのに、何億円もかかっている戦争映画のような大スペクタクルを連想させる。
きっと、わざと、そうしてるんだろう。娯楽映画というものを斜に構えて皮肉をまじえて提示しているのだろう。そんな気がしました。

ピザの箱を組み立てている貧困家庭。IT長者の富裕家庭。さらに一番下の、見えない階層にいる夫婦。みんな同じく「家族」なのに、収入が極端に違う。階層が違う。階層は固定化している。 さいごのホームパーティでの惨劇はよくできていた。
クライマックスで、ついに登場人物が全員、一同に介する。映画あるある。

僕がひっかかっていることを書きます。
それは「アメリカ」です。それから、子供が気に入っている「アメリカ製のインディアンのおもちゃ」です。
この映画は、徹頭徹尾、アメリカを賛美している。
友人がアメリカに留学する。兄は英語の家庭教師。妹はシカゴ大学の研究者を偽る。富裕家族はカタコトの英語をしゃべっている。
この三家族が示している階層の、そのまた上にアメリカ合衆国という資本主義(狭義には新自由主義経済)の親玉が控えていることを示している。
僕が納得のいかないのは、そのアメリカを悪玉として提示していないじゃないか、ということです。 この映画ではアメリカは善とも悪とも定められていない。
不気味に、姿をあらわさないが、すべてを支配している者として映画の基調を成している。

この映画をアメリカ人がみたら、悪い気分はしないと思います。
アジア人が不必要に日常で英語をつかっている。立身出世して特権階級に居続けるには英語です。
「アメリカに行きました」とか「アメリカから来ました」といえば、人々がひれ伏す世界を描いている。
やっぱり、アメリカ人がみたら、胸くそ悪くなる映画をつくらなくてはいけなかったのじゃないのか? もちろんそれは監督のセンスです。でも、そういう批判もあってしかるべきだと思います。 そしてこの映画はなんとアカデミー賞を獲得しました。
そんな間の抜けた、恥ずかしい話があるか、と思う。
アジア人がアメリカを賛美している映画をつくって嬉々として賞を受け取る。
(どちらとも言っていないが、どちらとも言っていないならこの場合、「賛美」と誹られても言い訳できないでしょう。)
いや、もしかしたら(たぶん)、アカデミー賞を狙って製作されたのが本作なのではないか。
映画業界のことなんて分からないけれど、製作会社だってアカデミーだって、みんなボンクラじゃないのだ。僕はそのように訝しく思います。
それならば、こんな恥ずかしい映画があるか、ということになる。
いや、ちがった。そんな映画しかアカデミー賞をとることが出来ないということでしょう。

おまけに、「インディアン」の話をします。
この映画では、富豪の息子がキーパーソンになっていますが、彼は、二つの貧困家庭を見ることができる存在です。両親は、成功した大人なので世の格差社会に目をつぶっていますが、子供はそのような悪いしぐさが身についていないのでしょう。
その彼が「インディアンごっこ」をします。それは何を表しているのでしょう。
オカシイと僕が感じるのは、やはり、ステレオタイプで描かれていることです。羽飾り、テント、弓矢など。現代のインディアンの視点が抜け落ちていると思います。これは、差別や格差社会をとりあげている映画としてまったくふさわしくない。
監督や製作者は、アメリカで成功している、アタマのいい人たちなのですから、そんなことくらい十分承知しているでしょう。わざと、でしょう。それは何故か?
それから、その意味するところが理解できません。
これが、富か階級というものによって人間の価値や命のゆくえが決まってしまうことを批判している映画なのであれば、インディアンは一体何を示しているのでしょう。
侵略される者のメタファー・・・? アメリカ資本主義に蹂躙される韓国をあらわしている・・・? まずはそれを疑うでしょうけれど、そんな単純な風にも見えません。もしそうなら、がっかりもいいところです。インディアンのことをもっと勉強してから映画に取り組むべきです。
インディアンごっこをする息子は、なにかしら両親に対して、反抗・反逆ののろしをあげている様子です。
しかし、彼は富豪夫婦の子供なのですから、結局なにも出来ませんし、しません。ここにインディアンをひっぱってくる必要があったのか。僕の頭ではわかりません。
しかも「アメリカ製のおもちゃ」という但し付きです。なんじゃそりゃ。馬鹿にされたような気がします。

よく分かりませんが、上記を重ね合わせて思えば、僕はこのインディアンのおもちゃは、この映画そのものを表しているのではないかという気がします。
つまり「アメリカ製のおもちゃ」が「アメリカを批判する」けれど「もちろん歯もたたない」。そもそも、「戦う気があるのかどうかも分からない」。
だからわざわざステレオタイプでトンチンカンな、批判するほうも腰が砕けるような、自嘲のメタファーになっているのではないか。
なんだか、『ブラック・クランズマン』のときと同じ、「映画はアカン」みたいな話になってきた。どうなんだろう。


「安倍総理が責任をとらない。」

 
昔から云われていることですが、とにかく、日本では「責任」という言葉の意味がさだまっていないのではないか。
そこに問題があるのではないでしょうか。

「責任をとる」ってどういう意味だろう?
「責任をもつ」ってどういう意味だろう?
それから、「あやまる」ってどういう行為だろう?
「許す」ってどういう意味だろう?
「許さない」ってどういう意味だろう?
「つぐなう」ってどういう意味だろう?
「保障」とか「保証」とか「補償」とか・・・どう違うんだ?
これがいつもぼやけています。
だから、誰も責任をとらないし、誰も責任を持たないし、責任がどこにあるのかも分からない。
責任とは何か、が分からないので、責任のとりようがない。
なにを謝っているのか分からないまま、みんな謝りつづけている。
反省も補償も誓いも無くたって、謝っている人は許さなくてはいけない。
または、一生懸命あやまっているのに、なぜ弁済させられるんだと腹をたてる。

こんなのばっかり。
「責任」という、この使いづらい外来語の意味を、誰かが決めてくれなくては、日本はいつまでたっても、この状態だと思います。
もっとも責任をとらない人間が、もっとも責任の重い場所にいる。
上にいけばいくほど責任は重いはずなのに、いつだって責任は下へ下へと送られる。
それは、安倍晋三にかぎったことではなくて、官でも民でも、上から下まで、いたるところで散見される話です。

「責任をもつ」というのは、その人がそれをやる、という意味です。
「責任をとる」というのは、本来は、ひきおこされた損失をその人がひきうける、という意味です。

責任をもつ、つまり「依頼されて、その人がそれをやる」っていうことが何より大事なのです。
首相だったら、国民の依頼にもとづいて行政府の長として様々な職務をおこなわなくてはいけない。
それが出来ない場合は交替しなくてはいけないのです。
でも、みんな「やる責任」の話はせずに「とる責任」の話ばかりする。なぜだろう。
「だれが責任をとるんだ!」とか「責任をとれ!」とか。
「なにかあったら責任をとれません!」とか。
「責任をとれば済むということではない。私には責任があるのです」などとわけのわからないことを言うやつもいる。
(日本人は、やっぱり、究極的には切腹が好きなんだろう。謝ってタダでおわらせるか、死してお詫びするか、頭のなかに二択しかないんだろう。)

で、どうなるかというと、誰も「責任のとりかた」が分からないので、誰も責任をとらない。
誰にも分からないので、誰かが謝ったら終わりになってしまう。
反省がない。同じことをくり返す。

僕は「責任をとる」なんか、無くていいと思う。
失敗したら、やめさせる人がやめさせるなり、減給させる人が減給させるなり、すればいいだけだ。
その責任をもつ人がそれをやらないから問題なのだと思う。

「謝る」の意味だってそうです。
この言葉の意味不明さに、そろそろ、日本じゅうがモヤモヤしてるところなのではないのか。
謝るのは、悲しいという気持ちを伝えることです。
謝ればそれで済むということになっている。
でも本当の「謝る」は、弁済や誓約とセットでないと成立しません。
感情として悲しいと口では言うが、行動としては何もしないし、何故それがおこったか分析も反省も理解もない、誓いもない、では子供の遊びです。
でも、ふつう、その先にはいわゆる逆ギレがある。「ではどうしろと!?」となる。
これが日本文化の迷路。「ゴメンナサイ論」。「責任論」。

ひょっとして、企業研修で、迷路の答えをしっかり教えたら効果あるんじゃないの。
そうしたら、会社の組織も強化されるだろうし、外国企業ともやりあえる力がつくんじゃないか。
それが日本をおおっているモヤモヤを取り払う、てっとり早い方法だろう。
本当は、企業研修なんてやってる場合じゃないけど。

結論としては、安倍晋三とは、「責任をもつ」という近代的な能力はまったくない男であり、「責任をとる」というサムライ精神のかけらもない男なのである。


マスクとスマホ。

 
マスク二枚でみんな怒っています。僕も怒り心頭です。
唐突かもしれませんが、マスク二枚で思うのは、これってスマホちゃうん・・・みたいな。
なんか、似ています。

映画『パラサイト』の冒頭で、スマホの電波をたぐっている兄と妹が描かれていました。
たいへんな貧困のなかにあっても、スマホは持っていて「世界とつながっている」「大量の情報を取得できる」という環境にある。・・・それは、僕たちがやったことではなく、誰かがやったことなのだ。
やっぱり思うのは、産業革命が貧富の差を生んだように、IT革命が貧富の差を生んでいるんだろうと思います。

マスクを配っておけば、あとは自己責任で、みたいな。
スマホさえ行き渡っていれば、あとは自己責任で、みたいな。
つまり、収入がすくないときにそれは自分の責任だと思い込む。
本当は景気や経済政策など、さまざまな大きな要因(なにより大きな格差)のなかに生きているのに。
情報はある。だから、瞬発的に行動して収入につなげることのできない各個人がわるいのだと。
本当は情報なんて無いし、情報があってもどうしようもないことだらけなのに。
そこを悪用しているのが、ホリエモンとか橋本徹とか、そういうたぐいの輩だと思います。
おれが教えてやるよ、とカモに拝金教みたいなのを広めている。

スマートフォンを使っていることは悪くないのです。
もちろん、僕もスマートフォンを持っています。
スマホに反対することとスマホを使用することは、矛盾しません。たとえて言えば、何パーセントかは原子力発電でつくられた電気を毎日つかっている人が、「原子力発電反対!」と訴える。それは当然のことです。
あ、そもそも、マスクの配給に反対しても、そのマスクを装着するのは悪いことであるはずがありません。

マスクはスマホだ。スマホはマスクだ。
そういえば、スマホを格安にしたのはスガ官房長官でしたか。同じような理屈でしょう。

でも、マスクに対しては、国民は怒っています。
当然です。あまりにもバカにされたもんだと。
いつか、人々がスマホに怒るときがくると思います。100年後くらいに、そういう時が来ると思います。
産業革命や都市化が貧富の差を生んだことを100年くらい経ってから怒ったように。
・・・もちろん、いま怒るべきだけと思うけど!


映画『US』

 

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僕は『US』はとても良かったと思っています。
星はいまのところ、四つくらいかな。いや、三つ半くらいか。
なにが良かったって、ラストの空撮がよかった。はるか向こうのほうまで繋がっているのです。
革命です。あれを見て、1963年のほうを思い出す人のほうが多いでしょう。86年のほうではなく。
むろん、63年のほうはヨコ一列でなくて、もっと幅のある行列のかたちをしていました。
だからフォームがちがいます。でも、やっぱり、63年のほうを思い出さなくてはいけないのだと考えます。
63年のほうを思い出して、どこが違うのか、を考えることが重要なのだと思う。
訴えの内容はどう違うのか?
規模や効果はどう違うのか?
なにより、五〇年まえとくらべて、前進しているのかしていないのか?

このさい、86年がどうだったかなんて、とるに足らないことなのです。
それは監督が子供の頃に体験したもので、よくもわるくも脳裏に焼き付いているのでノスタルジーとして、小ネタとして、オタクごころで、採りあげただけなのでしょう。
80年代のほうも、それはそれなりの成果があったはずです。それは素晴らしいことだと思います。
でも、いまや、反省したり、乗り越えるために存在するものであって、わざわざ讃える必要はありません。
僕はそう考えます。あれは物語の中心ではあるが、ネタとしては小ネタにすぎないと。
あれを入り口として観る者に考えさせるための小道具にすぎません。

この映画は欠点も多い。一番おおきな問題点は、革命がカタストロフィックに描かれていること。暴力革命であることです。赤い者たちが人を殺してまわっている。赤い者たちは、怖がらせるのは上手だけど実際には人に手をかけない、という存在であるべきではなかったか。非暴力革命にしなくちゃいけないのに。
いくらコメディでも、暴力革命を描いてしまえば、それはただの映画、つまりエンターテイメントになってしまいます。
(この点で、『スウィート・スウィートバック』は秀逸だったのです。実際の革命がおきるところまで行かずに映画が終わってしまうので。)
そういえば、『ジョーカー』は、おなじく、格差問題を描く映画でしたが、あちらは暴動を描いた映画でした。暴動を描くならそれはそれで良いと思う。暴動は起こるものであるから。「暴動寸前だぞ」と警告のメッセージは悪くなかったと思う。
『パラサイト』は、革命の話ではなく、いち家庭のサバイバルのはなしだった。最後にお父さんが暴発してしまいます。なんとか警察からは逃げのびるけれども、いくらもがいても最終的には階級構造のなかから抜け出せないことを示していました。(ラストで描かれる息子の救出劇は「不可能な妄想」だと思います。「希望を描きたいけど希望が描けないという希望」ということでしょう。)
『US』は、革命の映画です。ならば革命を描かねばならなかったと思います。でも、やっぱりエンターテイメント映画だった。いや、言い方がちがう。エンターテイメント映画のなかに革命を描き込むのが中途半端だった。

ホラーと思わせておいてコメディ。
コメディと思わせておいてレボリューション(レボリューショナリー)。
そこまでやってほしかった。
たしかに最後の空撮は、カッコよくて、爆笑で感動だったのだけれど。
『スウィート・スウィートバック』なら、
ポルノと思わせておいてアクション。
アクションと思わせておいてレボリューション。
そんなふうが良いのではないでしょうか。

さて、この映画の素晴らしいところはなにかというと、このタイトルが『US』というところです。
つまり「抑圧されている人々は、わたしたちである」と言っているのです。
「あの人とわたしで、わたしたち」という意味ではなく、「あの人たちはわたしたち」すなわち「あの人はわたし」という意味です。
映画の評論では「ドッペルゲンガー」とか「デカルコマニー」とか云うのを耳にするのですが、そんなのは演出の問題なので、ほんと、どうでもよいのです。メッセージが薄れてしまうだけのような気がします。もし監督がそんなのにこだわっているのだとしたら(すこしその様子があるが)、僕はがっかりです。

これは、このブログでも前に採り上げたステイプルシンガーズの曲「RESPECT YOURSELF」とまったく同じフレージングです。「あの人は自分自身なんだよ、あなたが自分自身を大切にできないなら、いったい誰があなたのことを大切にしてくれるの?」という歌でした。つまり、(アメリカ黒人の)団結をうたっています。団結という言葉をひっくりかえしているわけですね。
この歌は、基本的には、アメリカの黒人どうしは「自分自身どうし」としていたわり合わなければいけない、という意味なのですが、これは「おなじアメリカ人」でもよいし「おなじ人間」でも構いません。また、「おなじ労働者」でもかまいません。
http://osakamonaurail.com/nakata/2017/06/respect-yourself-1971.html

「団結」や「連帯」という言葉とほぼ同じなのですが、その先をゆくような意味でしょう。「他人だけれども手をつなごう」も「あの人はじつは私自身」も「個人として尊重される」も、結局のところおたがいに矛盾しないのです。
僕は、たまたま、ここに生まれただけなのだ。あの人だって、たまたま、あそこに生まれただけなのだ。僕はあの人なのだ。

この映画『US』は、アメリカ黒人の解放の映画ではなくて、アメリカの格差社会のことをテーマにしています。だから「US(アメリカ合衆国)」なのでしょう。「おなじアメリカ人なのだ」という意味です。
言うまでもなく、日本に住む僕なんぞから見れば、それは視野が狭すぎるやろ、と思ってしまいます。
しかし、理屈は間違っていないといえるでしょう。「アメリカ人は手をとりあおう。」「世界中の人たちは手をとりあおう。」いや、手をとりあおうどころか、もともと一つだった(またはこれから一つになる)自分自身なのだ、ということです。

クローン人間がどうのこうの、みたいな設定はげんなりしましたが、ラストシーンの絵柄だけが僕の心にのこっています。それから、最初に、夜に攻めてくるときの時点で家族が手をつないでいるのが良かった。何回みても笑いがこみあげてきます。

image2_US.jpg

I.G.Y.(ドナルドフェイゲン 1982年)

 
"INTERNATIONAL GEOPHICAL YEAR" by Donald Fagen
「国際地球観測年(1957年〜1958年)」
ドナルド・フェイゲン
1982年発表




星条旗の下 勇ましく言い切れる
夢は現実になりつつあると
もはや誰も否定できない
僕たちの未来は輝かしいんだ

あの黒く光る鉛の列車にのって
海底の線路をいけば
ニューヨーク〜パリ間はたったの90分
人類は1976年までには完璧になる

 素晴らしい世界が僕たちを待っている
 自由と栄光の時が僕たちを待っている(くりかえし)

宇宙ステーションへの切符を買おう
いまのうちに これは出来レースさ
空のうえで行われるショーを観劇
僕たちの勝利をよく見てて

地上の僕らは 都会で遊び尽くそう
都市は太陽光発電でまかなわれている
流線型の世界 お天気も問題ない
皆がスパンデックスの上着をもっている

 素晴らしい世界が僕たちを待っている
 自由と栄光の時が僕たちを待っている(くりかえし)

あのキラキラ光る鉛の列車にのって
海底の線路をいけば
ニューヨーク〜パリ間はたったの90分
(世界中の音楽家は休みがふえる)
重要な政策決定は機械がやってくれる
そのコンピューターを開発したのは
思いやりがあって 将来のビジョンを持った人さ
機械にまかせておけば
まもなく僕たちは完全人間になる
永遠の自由と永遠の若さを手にいれる

 素晴らしい世界が僕たちを待っている
 自由と栄光の時が僕たちを待っている

 素晴らしい世界が僕たちを待っている
 自由と栄光の時が僕たちを待っている


Standing tough under stars and stripes
We can tell this dream is in sight
You've got to admit it at this point in time
That it's clear the future looks bright

On that train all graphite and glitter
Undersea by rail
Ninety minutes from NewYork to Paris
Well by seventy-six we'll be A.O.K.

What a beautiful world this will be
What a glorious time to be free

Get your ticket to that wheel in space
While there's time the fix is in
You'll be a witness to that game of chance in the sky
You know we've go to win

Here at home we'll play in the city
Powered by the sun
Perfect weather for a streamlined world
There'll be spandex jackets one for everyone

What a beautiful world this will be
What a glorious time to be free

On that train all graphite and glitter
Undersea by rail
Ninety minutes from NewYork to Paris
(More leisure for artists everywhere)
A just machine to make big decisions
Programmed by fellows with compassion and vision
We'll be clean when their work is done
We'll be eternally free yes and eternally young

What a beautiful world this will be
What a glorious time to be free


『きらめく星座』を観たあとに。

 
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『きらめく星座』を観劇しました。
太平洋戦争開戦の前夜、自由がうしなわれてゆく様をえがいたお芝居を見終えて、すっと戻った現実の世の中では、イベントの自粛要請や休学要請で大騒ぎしているので、まるで、突然この世界のうえに芝居小屋の屋根ができたような、もしくは、僕たちが芝居の舞台に乗っかっているような不思議な気分になりました。

戦争と伝染病はまったく意味が違うのかもしれませんが、やはりよく似ている点があると思います。それを僕たちは見過ごしてはいけないと思います。

それは、あの「自粛」というやつです。
政府は、コンサートなどの催し物の、自粛要請をだします。中止命令はだしません。
休学命令はださずに、休学要請をだします。
感染をふせぐために必要なことであれば、専門的知識にもとづいて「命令」をだせばよいのですが、否、命令をださねばならないのですが、政府は何故かそのような行動をとりません。
命令をだせば責任をともなうからです。
自粛という空気を煽るほうが、簡単なのでしょう。国民が国民を監視しあうほうが国の隅々までいきわたるし、なにより、政府はなにも責任をとらなくて良いのです。

その命令が適切でなかったことが後に判明したら誰が辞任するのか。
休学にあたって学校の先生はどうしたらよいのか。
給食をたべることのできない子供は大丈夫なのか。
日中に子供を預かる体制はどこまで政府が支援するのか。
給食センターであまった食料をどうするのか。
コンサートなどの中止にともなう金銭的な補償は何かあるのか。
中止命令にしたがわない者にたいしてどのような罰則をもうけるのか、もうけないのか。
そして何より、上記のようなことにたいして、政府への批判がたかまったとき、なんと説明するのか。

こういう責任をすべて有耶無耶にしてしまうのが、この国の政府のやりかたです。
これこそまさに、大西巨人が云っていた《累々たる無責任の体系》というやつでしょう。
誰も責任をとらずに問題を下へ下へと押し付けるという日本社会の本質。

『きらめく星座』は、時代の空気にのまれて結局は権力のいいなりになってしまうという運命のなかで、庶民がさいごの力をふりしぼっているところを描いていたと思います。

伝染病の発生は、政府が悪いわけではありません。
しかし、国の一大事があれば、政府はことなかれ主義ですぐさま責任をほうりなげて国民に押しつけ、そして国民はすすんでお互いの監視をはじめてしまうということを、ふたたび目の当たりにしているように思います。

せっかくだから、この機会によく見ておくべきだと思います。このような世界規模の危機が訪れたとき、政府がどのように逃げてゆくかを。

CHOICE OF COLORS - THE IMPRESSIONS, 1969





もし肌の色をえらぶことができたら
きみは何色をえらぶ?
もし昼と夜のどちらが「正しい」かと訊かれたら
きみは何とこたえる?

学校の白人の先生が嫌いなんだってね
教会の黒人の牧師は好きなんだってね
兄弟姉妹や女性や友人に敬意をもって接しているか
血縁だけでなく黒人社会全体で分け合っているか

僕たちは証明しよう
明るい未来が訪れるはずだと
より良い教育と
この国の人々への愛があれば
社会を良くしていけると

いがみ合ってばかりで仲よくできない奴もいる
お互いの信頼を築いていこう
考えの違いはいつか乗り越えられるはず
僕の言いたいことを聞いてほしい

学校の白人の先生が嫌いなんだってね
教会の黒人の牧師は好きなんだってね
兄弟姉妹や女性や友人に敬意をもって接しているか
血縁だけでなく黒人社会全体で分け合っているか

僕たちは証明しよう
明るい未来が訪れるはずだと
より良い教育と
この国の人々への愛があれば
社会を良くしていけると

もし肌の色をえらぶことができたら
きみは何色をえらぶ?
もし昼と夜のどちらが「正しい」かと訊かれたら
きみは何とこたえる?


If you had a choice of color
Which one would you choose my brothers
If there was no day or night
Which would you prefer to be right

How long have you hated your White teacher
Who told you, you love your Black preacher
Do you respect your brother's woman friend
And share with black folks not of kin

People must prove to the people
A better day is coming for you and for me
With just a little bit more education
And love for our nation
Would make a better society

Now some of us would rather cuss and make a fuss
Than to bring about a little trust
But we shall overcome our beliefs someday
If you'll only listen to what I have to say



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