「1939年9月1日に」W. H. オーデン

 
「 1939年9月1日(第二次世界大戦勃発の日)に」W.H. オーデン


五十二丁目の酒場で ひとり
不安に怯えながら
腰かけている
大不況と欺瞞の十年が幕をとじ
わずかな希望もついに琴切れた
怒りはとぐろをまき
恐れは大波となり
世界のそこかしこをのみこんで
人々を翻弄してゆく
えも言われぬ死臭の漂いはじめた
九月の夜

ただしい歴史研究は暴く
マルチン・ルターから現代にいたるまで
連綿とつづくユダヤ迫害によって
近代ドイツは一度ならず狂気へ向かった
リンツで何が起こったか
巨大なイマーゴが
サイコパスの神をつくりあげたのだ
誰しも知っていることだろう
小学生でも知っていることだろう
悪行をなされた者は
悪行をなした者にお返しをする

追放の身となったトゥキュディデスは記した
政治家は熱弁をふるい
民主政を説いたうえで
独裁政治におよぶ
耳をもたない死者の前で
腐敗物のごとき演説をぶつ様も
いちいち彼の書で語られた。
いまや教養や知性は吹き飛ばされ
あの悪政による悲劇に
あの終わりない苦痛に
ふたたび苛まれる

中立国アメリカで空を仰ぐと
ふてぶてしい高層ビルが天を覆い
背丈いっぱい「人類文明の繁栄」を謳う。
人びとの口元から垂れでる言葉は
うぬぼれていて、一人よがりで、言い逃ればかり
至福の夢に陶酔していられた時代
それははやがて終わる
鏡の中からこちらを睨み返すのは
帝国主義の顔
世界を舞台にした悪業

酒場に集う面々は
必死の思いで日常にしがみつく
灯りを消してはならぬ
音楽を止めてはならぬ
一味は砦にむらがり
ここが憩いの家と信じる。
現実から目をそむけようとも
すでに悪霊の森に迷いこんでいる
すでに闇夜におののく子供となる
その子供は決して
おりこうさんでも よい子でもなかった

勇ましい政財界の大物が
ぶっそうな言葉を吐こうにも
われら庶民の粗野な願望には敵うまい。
ニジンスキーが精神を患って書いたという
ディアギレフについての手記は
ひろく人間の心にあてはまる
女であろうとも男であろうとも
手に入らない物ばかりを欲し
あげく過ちを犯す
万人を想う愛にはかまわず
独占できる愛を求める

因習の暗闇をもって
毎日の倫理となす
朝がくれば大勢の通勤客が
誓いの言葉をくりかえす。
「妻のために一所懸命
仕事以外のことも考えず」
気の毒なお父さんたちは
くる日もくる日もお勤めにいそしむ。
この人々をどうやって解放する?
聞く気のない人々にどう語りかける?
声をあげない人々をどう代弁する?

私にあるもの、それは声
声で、縺れた嘘をほどくのだ
色欲に煩まされる平凡な男の
恋沙汰にまつわる嘘や
高層ビル群をなして空を支配する
政府のつく嘘を。
国家など存在しない
ひとは一人では存在できない
市民であろうと官憲であろうと
時がたてば腹がへるのは皆同じ
思いやりが無ければ人は生きられない

夜の下 抵抗する術なく
朦朧たる嘘の世界で
しかし、皮肉にも点々と
正義の人びとが在るところ
光がきらめき
メッセージを交わす。
私もそうありたい
情念とちりのかたまりにすぎない私も
おなじ虚無と絶望に
つつまれながら
希望の炎を灯したい



I sit in one of the dives

On Fifty-second Street

Uncertain and afraid

As the clever hopes expire

Of a low dishonest decade:

Waves of anger and fear

Circulate over the bright

And darkened lands of the earth,

Obsessing our private lives;

The unmentionable odour of death

Offends the September night.

Accurate scholarship can

Unearth the whole offence

From Luther until now

That has driven a culture mad,

Find what occurred at Linz,

What huge imago made

A psychopathic god:

I and the public know
What all schoolchildren learn,

Those to whom evil is done
Do evil in return.

Exiled Thucydides knew

All that a speech can say

About Democracy,

And what dictators do,

The elderly rubbish they talk

To an apathetic grave;

Analysed all in his book,

The enlightenment driven away,

The habit-forming pain,

Mismanagement and grief:

We must suffer them all again.

Into this neutral air

Where blind skyscrapers use

Their full height to proclaim

The strength of Collective Man,

Each language pours its vain

Competitive excuse:

But who can live for long
In an euphoric dream;

Out of the mirror they stare,

Imperialism's face

And the international wrong.

Faces along the bar

Cling to their average day:

The lights must never go out,

The music must always play,

All the conventions conspire

To make this fort assume

The furniture of home;

Lest we should see where we are,

Lost in a haunted wood,

Children afraid of the night

Who have never been happy or good.

The windiest militant trash

Important Persons shout
Is not so crude as our wish:

What mad Nijinsky wrote

About Diaghilev

Is true of the normal heart;

For the error bred in the bone

Of each woman and each man

Craves what it cannot have,

Not universal love

But to be loved alone.

From the conservative dark
Into the ethical life

The dense commuters come,

Repeating their morning vow;

"I will be true to the wife,
I'll concentrate more on my work,"

And helpless governors wake

To resume their compulsory game:

Who can release them now,

Who can reach the deaf,

Who can speak for the dumb?

All I have is a voice

To undo the folded lie,

The romantic lie in the brain

Of the sensual man-in-the-street

And the lie of Authority

Whose buildings grope the sky:

There is no such thing as the State

And no one exists alone;

Hunger allows no choice

To the citizen or the police;

We must love one another or die.

Defenceless under the night

Our world in stupor lies;

Yet, dotted everywhere,

Ironic points of light

Flash out wherever the Just

Exchange their messages:

May I, composed like them
Of Eros and of dust,

Beleaguered by the same
Negation and despair,

Show an affirming flame.



うーん、思えば、90年代の後半って、「どうやって不況を脱するか」という話をみんなが議論していた。
つまり、バブル崩壊のすぐあと。
あのときはまさかバブル崩壊が三十年後までひきずるとは誰も思っていなかった。
景気という意味でもそうだけど、経済構造そのもの、そして日本にすむ全員の精神を荒廃させた。80年代の空虚な繁栄は、プラザ合意によって崩壊が加速させられた。
いまだに癒えていない大きな傷。

そのとき、つまり、90年代後半に、しきりに「住宅、住宅」と言うている人がいた。
「日本は住宅をどんどん建て替えるという特殊な習慣の国だから、住宅分野を掘り起こせば莫大な内需拡大が見込める」と言いたかったようだ。
これではあまりにヒドいと気づいていたためか、もうすこしオブラートにつつんだ言い方もあったと記憶する。
「日本はたったの数十年で住宅を建て替えてしまう特殊な習慣のある国なので、住宅の資産価値を欧米基準より低くみつもっている。したがって実際には、日本国内には膨大な資産が眠っている。これを活用しない手はない」。
いくらストックがあってもフローが発生しなければ経済に影響がないのだから、前者と後者は同じなのだと思う。

僕は当時、ピンと来なかったのだが、それから四半世紀経ったいまとなっては実感としてつかめる。
規制緩和をすることによって、住宅、マンション、ビルの立て替えを促進させ、景気が良くなる、という話。
じっさいには何がおこったか。
たくさんの住宅立て替えや、記録的な高層ビルが建ち並んだ。
景気は大して上向かなかった。
なぜ経済効果がなかったのか、僕にはよく分からない。
国のなかでゼロサムゲームやっても意味がない、ということかな、たぶん。

昨今の奇妙な、狭小住宅ブーム(これは住宅のシュリンクフレーション)、タワマンブーム、高層ビル建設ラッシュは、国策の規制緩和(容積率の緩和)によって起こっている。ということは、ここに恐ろしい魔物が潜んでいる気がする。景気回復を目的として(技術革新ではなく)、地震大国が規制をとっぱらったのだとしたら、それは無茶苦茶にヤバい。

外国に行けば事情はまったく違う。ヨーロッパの都市にいけば、百年前のマンション/アパートがずらりと建ち並ぶ。ナゾの建て増しも勝手にやっているようだが地震が来ないので、倒壊することもない。
上海に演奏しに行ったとき、泊まったホテルの部屋が90階だった。雲に手がとどきそうな、空のうえにいるような部屋。ゴボウみたいなひょろっとした高層ビルなのだが、これでも誇らしげに建っている。

もちろん僕には建築の知識はないけれど、日本には絶対できないことだから真似をしたらアカン、と言いたい。
竹中平蔵は「東京は深センみたいに高層ビルを建てないといけません」と言っていた。
つまり、建築の専門家でない竹中平蔵がビルを建てろと言っているのだから、建築の専門家でない僕がビル建設をやめろと言ってなにが悪い、というのは屁理屈でもなんでもない。

規制緩和と耐震基準みなおしはセットだろう。
10年ほど前、文京区は江戸川橋に、お世話になったリハーサルスタジオがあり、これは80年代につくられた結構有名なスタジオなのだが、バンドの練習で毎週通っていたけれども、とつぜん営業を停止した。ビルが耐震基準を満たしていないので、取り壊さなければならないのだという。
僕の通った高校も、耐震基準を満たしていないとのことで、昨年、べつの場所へ移転した。
よーするに、耐震基準を強化すれば、立て替え促進にもなり、高層ビル規制緩和の言い訳にも使えて、二重の旨味があると。そういうことなんだろう。

すこしだけ話はちがうが、国立競技場をとりこわしたときのスピードはすごかった。新しい国立競技場のデザインで揉めていたが、取り壊すのは誰も止められなかった。一瞬だ。
このたびの神宮外苑だっておなじ。何を思ったか、突然、一気に取り壊す。
取り壊すことが国策なんだ。それが経済に役立つという悪魔の論理がまかりとおっている。
ほんとにオカシイ。
そこに、異常に高いビルがこれから建つのだろう。

無理矢理にアクセルを踏みますが、同時にブレーキも踏むから大丈夫です、みたいな、謎の屁理屈。(「神宮外苑をららぽーとにしますが、たくさんの緑をならべますからいい雰囲気ですよ」。)
こわすぎる。
「原発はむちゃくちゃ危険ですが、むちゃくちゃ管理しているので絶対安全です」とか、
「自由主義経済で、経済格差は進行するがセーフティーネットを張るから大丈夫です」とか、
「オリンピックをやりますが、福島第一原発は完全に管理できているので大丈夫です」
「オリンピックをやりますが、コロナ対策をしっかりやるので大丈夫です」

とにかく、タワーマンションやら新興高層ビル(六本木ヒルズとかあべのはるかすとか東京スカイツリーとかもふくめて)は、ぜったい、そう遠くない未来に倒壊すると確信している。素人の確信。そこに住んでる人や、ちかくに暮らしている人は気をつけてください。
縁起でもないことを、専門知識も無く、ただし大真面目に書きました。


PEOPLE MAKE THE WORLD GO ROUND by The Stylistics, 1971




今日のゴミ収集はお休み
うちのゴミもほったらかし
なぜかって?
賃上げ要求中だから

バス運行もストライキ中
運賃は値上げ予定
このままいけば
大気汚染がすすんじゃうね

 でもそうやって世界が回ってるわけ
 上がったり
 下がったり
 ぐるぐるまわる
 回転木馬みたいに

 労働者のアタマが
 すげ代えられるだけの世の中......
 若者よ
 抵抗せよ
 世界を回すのはわれわれ人民なのだ

ウォール街では株が下がって
投資家が損をしたらしい
その原因といえば
「最近の若者は働かない」からだって

金持ちは安楽椅子で
太い葉巻をくわえて煙をくゆらせる
気にしない気にしない
貧乏人のことなんて気にしない

 でもそれで世界が回ってるわけ
 上がったり
 下がったり
 ぐるぐるまわる
 回転木馬みたいに

 労働者のアタマが
 すげ代えられるだけの世の中......
 若者よ
 抵抗せよ
 世界を回すのはわれわれ人民なのだ

 われわれ人民が世界を回すのだ
 われわれ人民が世界を回すのだ


Trash men didn't get my trash today
Oh, why? Because they want more pay
Buses on strike want a raise in fare
So they can help pollute the air

But that's what makes the world go round
The ups and downs, a carousel

Changing people's heads around
Go underground, young man
People make the world go round

Wall Street is losing dough on every share
They're blaming it on longer hair

Big men are smoking' in their easy chairs
On a fat cigar without a care

But that's what makes the world go round
The ups and downs, a carousel

Changing people's heads around
Go underground, young man
People make the world go round

People make the world go round
People make the world go round


「ソサイエティ」

 

ご存知のように、もう三年になるでしょうか、ここ日本にも新型コロナというものががやってきて、「ソーシャル・ディスタンスをとりましょう」という話になりました。
その新語に、なんだか違和感をおぼえたのは僕だけでなかったと思う。 とっさに僕はこう思った。
「ソーシャルなディスタンスをとったらアカンやん、フィジカルなディスタンスをとるのは必要なんだろうけど」
ただでさえ人と人のあいだが遠くなっている世の中で、「もっと遠くしましょう」なんて、いくら感染症のことだから別の話だと理解していても、言葉が悲しい。

ところが、日本にかぎったことではなく、英語をつかう国々はもちろんのこと、世界中のひとが「ソーシャル・ディスタンス」と言っている。
つまり、僕の憶えた違和感はまちがいであった。
僕の英語のセンスが悪かった、という話。
何のことはない、「ソーシャル」というのはただ単に「人間の」という意味であって、この場合は人間という物体どうしのあいだに距離を置きましょうという意味にしかならない。

それで僕は膝を打った。
「ソーシャル」って「人間の」という意味だった・・・知らなかった。びっくり。
もしやと思って、「ソサイエティ」という言葉を辞書でひいてみる。そうしたらこう書いてある。

society
noun
UK /səˈsaɪ.ə.ti/ US /səˈsaɪ.ə.t̬i/
(People) A large group of people who live together in an organized way, making decisions about how to do things and sharing the work that needs to be done. All the people in a country, or in several similar countries, can be referred to as a society.

ソサイエティ
(名詞)
(人びと)①なんらかの秩序を保ち、運営方法を決定したり、やらねばならない任務を共同でおこないながら、大勢であつまって暮らしている人間の集団。②ある一つの国(または似通った国が複数の場合もある)に住むすべての人びと。

ようするに「ソサイエティ」って「大勢の人間」という、ただそれだけの意味の言葉である。
それを明治以来のことだろうけど、日本語では「社会」と翻訳している。 社会なんていう漢字二字の熟語に入れ替わったとたんに意味がわからなくなる。
地域に建ち並ぶ、区役所や郵便局、駅や鉄道、商店街や銀行のことが頭にうかぶ。
もしくは地理。なんとか山脈とか、なんとか性気候とか。
もしくは歴史。源頼朝とか徳川家康とか。または明治維新とか日清戦争とか。

「社会」で画像検索してみると、高層ビルや東京タワーのみえる東京の空撮写真ばかりがでてくる。
「Society」で画像検索してみると、人間があつまっているイラストばかりがでてくる。
本来「ソサイエティ」というのは大勢の人間(が共生している)という意味だったものが、日本語で「社会」という訳語となり、それの意味するところは、よーするに高層ビルのことである。
こんなアホな話があるか。

これが日本における、カギカッコ付き「社会」の実態であり、社会が無いからそうなのか、言葉が無いからそうなのか、もしくは言葉(概念)がないだけで実は「社会」に相当するものはどこかに存在しているのか。もしくは、そもそも人間(個人の集合)という概念が無いからこそ、そうなってしまうのか。

なにぶん言葉の話であるゆえ、どこに元凶をもとめるか、頭のこんがらがることではあるけれど、僕の考えとしては、「わたしたちの社会」なんていう言葉を使っても解決が遠のくばかりだから、「世の中」とか「人びと」とか「地域のみなさん」とか「国民」あるいは「人民」などを使うほうが、まだ人の住む世をあらわすような気がしている。
ただ、その逆の立場で「社会という言葉をもっともっと浸透させ、その意味をつくり直してゆくべき」という立場も、当然ありうると思う。どちらでもよい。

MISSISSIPPI GODDAM(ニーナシモン 1964年)

 
MISSISSIPPI GODDAM by Nina Simone, 1964




つぎの曲のタイトルは「ミシシッピ州くそくらえ」です。 
これは皮肉でもなんでもないんですよ・・・。 

アラバマ州はお行儀よろしくありませんわ
テネシー州にも一言もうしあげます
ミシシッピ州もご近所に知れております・・・くそくらえ! 

アラバマ州はお行儀よろしくありませんわ 
テネシー州にも一言もうしあげます 
ミシシッピ州もご近所に知れております・・・くそくらえ! 

あなたも知ってるでしょう? 
肌で感じるでしょう? 
たちこめる独特の空気 
重苦しくて耐えられない 
ああだれかお祈りを

アラバマ州はお行儀よろしくありませんわ
テネシー州にも一言もうしあげます
ミシシッピ州もご近所に知れております・・・くそくらえ! 

これはミュージカルでつかうために書かれた曲なんですが、 ミュージカルのほうはまだ書かれていないんです。 

路上には警察犬
留置場には学校の児童たち 
黒猫がまえを横切る 
いつ殺されてもおかしくない 

ああ神よ 私たちのこの国 
いつか必ず自分の国に住むはずだけど 
どこにいってもわたしに居場所は無い 
神に祈っても意味がない 

だまって私の話をききなさい 
わたしたち同胞はもう時間切れ 
この目でみたからよく知ってる 
わたしたちは「急ぐな!」ばかり言われるの 

急ぐのか、急がないのか そこが問題なわけ
窓を拭くにしても「早くしろ!」 
綿をつむいでも「早くしろ!」 
「まったくあきれた奴だな、早くしろ!」 
「たいした怠け者だな、早くしろ!」 
「考えなくていいから、早くしろ!」 
どこに行けばいいのか
なにをすればいいのか
ああ分からない 

とにかく最善をつくしましょう 
みんなでたちあがりましょう 
ミシシッピ州の惨状は知れ渡っています ・・・くそくらえ!

ジョークを言っていると思ったでしょう?

デモ行進も学校ボイコットも
共産主義者の陰謀だなんて
わたしたちは平等をもとめるだけ
姉妹のため 兄弟のため 黒人全体のため
そして私自身のため

うそにまみれたこの国
ハエみたいに全員死んじゃえばいい
もうあなたたちのことは信用しない
あなたたちは「急ぐな!」ばかり言う

急ぐのか、急がないのか そこが問題なわけ
人種隔離の廃止にしたって「おそすぎる」 
大衆参加にしたって「おそすぎる」 
市民統合にしたって「おそすぎる」 
社会変革がゆるやかで「おそすぎる」 
これではさらなる惨状をまねくだけ 
気づかないの? 
感じないの? 
ああ分からない 

私のとなりに住めと言ってるんじゃないの 
わたしとあなたは平等だと言ってるだけ 
ミシシッピ州のことは知れ渡ってる 
アラバマ州のことも知れ渡ってる 
誰でも知っている 
あのクソみたいなミシシッピ州

おしまい!




The name of this tune is Mississippi Goddam. And I mean every word of it. 

Alabama's got me so upset
Tennessee made me lose my rest
Everybody knows about Mississippi Goddam

Can't you see it? Can't you feel it?
It's all in the air
I can't stand the pressure much longer
Somebody say a prayer

Alabama's got me so upset
Tennessee made me lose my rest
Everybody knows about Mississippi Goddam

This is a show tune, but the show hasn't been written for it yet.

Hound dogs on my trail 
School children sitting in jail 
Black cat cross my path 
I think every day's gonna be my last 

 Lord have mercy on this land of mine 
We all gonna get it in due time 
I don't belong here I don't belong there 
I've even stopped believing in prayer 

Don't tell me I tell you 
Me and my people just about due 
I've been there so I know 
They keep on saying "Go slow!" 

But that's just the trouble "Too slow" 
Washing the windows "Too slow" 
Picking the cotton "Too slow" 
You're just plain rotten "Too slow" 
You're too damn lazy "Too slow" 
The thinking's crazy "Too slow" 
Where am I going, what am I doing 
I don't know, I don't know 

Just try to do your very best 
Stand up be counted with all the rest 
For everybody knows about Mississippi Goddam 

 I made you thought I was kiddin' 

Picket lines, school boycotts
They try to say it's a communist plot 
All I want is equality 
For my sister my brother my people and me 

 Yes you lied to me all these years 
You told me to wash and clean my ears 
And talk real fine just like a lady 
And you'd stop calling me Sister Sadie 

But this whole country is full of lies 
You're all gonna die and die like flies 
I don't trust you any more 
You keep on saying "Go slow!" 

But that's just the trouble (Too slow) 
Desegregation (Too slow) 
Mass participation (Too slow) 
Reunification (Too slow) 
Do things gradually (Too slow) 
But bring more tragedy (Too slow) 
Why don't you see it, why don't you feel it 
I don't know, I don't know 

You don't have to live next to me 
Just give me my equality 
Everybody knows about Mississippi 
Everybody knows about Alabama 
Everybody knows about Mississippi Goddam 

 That's it!

一(いち)の発見

 

題名に惹かれて、じつに興味ぶかい本をよみました。

吉田洋一という数学者によって書かれた本。

数学の歴史などについて、ふつうの人がたのしめるように書かれたもの。

初版は戦前だが、いまだに人気のある、とても有名な本だとききました。

「零の発見:数学の生い立ち」という読み物です。


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古代のひとびとが数(かず)をあつかうようになり、一やニや三は知っていても、零(れい)すなわちゼロは知らなかったといいます。

ゼロの概念はインドの商人がつくったそうです。

厳密にいうと、それまでゼロをあらわす文字がなかった。


誰もゼロって書くことができない・・・どんなかんじだろう。

「無」というのは意識できたのだろうけど、ゼロというものが数字の一つとして考えられていなかった、ということだろう。

僕なりに解釈してみると、きっと、

 2 ー 2 = ?

と尋ねられると、当時の答えとしては「そんなの、わかりきってるじゃん、なくなっちゃうんだよ、なにをばかな質問してるんだよ」ということになったのであろう。

大真面目な顔をして、

「こたえは、ゼロです」

なんて言わなかったんだろう。

それも分かる気もしなくもないけど。


それが、何世紀のころか知らないけど、インドのひとが、「1や2や3ばかりじゃなくて、〈無〉をあらわす数字もつくったほうが便利だよ」と言い出したと。

それは何年もかけた大革命だったのだろう。

いうまでもなく、そのあとさらにマイナスの概念が発見される。それはもっともっと後の話。マイナスの発見も、大革命だったにちがいない。


そういえば、高校で「虚数」というものを習った。

たしか、「二乗したらマイナスになる」という存在しない数のこと。

存在しないのだが、いちおう存在すると自分自身をだましてみることで、わからなかったことがわかる、新しい世界が見えて来るという。


古代の人はゼロを知らなかった、と聞くとやはり古代のひとびとは数学的に未開だったのだなあ、なんて思うが、人のことを嗤っていられない気もする。

日本人は本当にゼロやマイナスを理解しているのか、心もとない。

というのは、やっぱり、あの、エレベーターの話があるから。


日本で「一階」というのは、諸外国のエレベーターでは「0」というボタンを押します。

日本でいう「二階」というのは、英語では「The first floor」と呼びます。エレベーターのボタンでは「1」になる。


だから、ホテルに宿泊するときには、大きなホテルは困らないのですが、小さなホテルだと頭がこんがらがる。

エレベーターのない小さな宿の場合、レセプションの人から「あなたの部屋は15です。一階にありますから、そこの階段をあがってください」と不気味な指示をもらう。

そのあと、うちのバンドメンバーとの会話で、

「中田さんの部屋はどこですか」

「オレは二階だよ」

「それって、ようするに一階っていう意味ですか」

などという意味のわからない会話をするはめになる。


これは西洋と東洋で、階(かい)がひとつずれている、という単純な話ではありません。

地上階(The ground level)のことを「一階」と呼ぶのか「零階」とかんがえるのか、の違い。

地下一階が、マイナス1なのであれば、日本で云う「一階」は、「零階」とよばなければつじつまが合わないことになる。

もしかしたらどこかの外国からのお客さんが、日本のエレベーターに乗ったら、

「ああ、日本のひとはゼロの概念が希薄なんですね」

などと言われちゃうかもしれない。


僕がその本『零の発見』をなぜ手にとったかというと、ファンクをかんがえる手がかりになるんじゃないかと思ったからです。

ご存知のように、ジェイムズ・ブラウンは「The one」なるものを発明/発見した、と云われています。

ファンクというものに魅せられたひとたちは口をそろえて「The oneだよ! すごいよ! 大発明だよ!」と嬉しそうに言う。


「1、2、3、4、ときて、ふたたびあの1がくるんだ。すごい!」

とあたりまえのことを言う。さらには、

「1、2、3、4、の四つのそれぞれも、やはりおなじ1なんだよね、すごい!」

とか、

「2と4が大事だと思ってたら、じつは音楽は1と3から始まってるんだ、すごい!」

とあたりまえのことをさも大発見のように言う。

つまり、さっきの零(ゼロ)のはなしとおなじで、その概念を知る人は「これがなくちゃやってられない」となるのだけど、まだくっきりと概念がみえていない段階の人は「なにをあたりまえのことを言ってるのだ?」となる。


「The one」をよく知るひとは皆、その話をしだすといきなり「イエーイ! The one!」とか、うれしそうなスイッチがはいって、宇宙と交信するような感覚となる。

ようするに、The oneというのは、神みたいなもん、それにちょっと似た存在なのだろう。


存在。

それが、そこにあるということ。

音楽における音符(ノート)というものは、たらたらと奏でられては時間とともに消え、川の水ように流れてどこかへ去ってゆく、そんな感覚があるけれど、それを打ち破るような概念。

一つ一つの音符が、リズムが、楽器の音が、なにかたしかな存在であるという感覚。がっしりしたもので形成されていて、何かによってしっかりと支えられているという感覚。

その支配的な物体(The one)の存在のなかにもまた、果てしない世界がひろがっているような。

いわば果てしない時間をつくるビッグバンのような。

それがThe oneというもの・・・なのかな。


まあどこまでいっても意味不明なはなしではあるのですが、とにかくジェイムズブラウンは「一(いち)を発見」したとして知られる。

岩波書店から『一の発明』(ジェイムズ・ブラウン著)という本でも発売させないといけない。

一(いち)というのは、そこにある。

もしかしたら無いのかもしれないけど、あると強く思えば、存在をつくることができる。

そうして、それをつくる主体もまた、「The one」だと云う。

NOPE (2022)

 

いまのところ、細部まではっきりとメッセージを受け止めた気分はしていないものの、映画「NOPE」とは一体何の物語なのか、どういう方向で考えたらいいのか、感想を書き留めてみようと思いました。

まず、歴史上初めて撮影された連続写真(=映画)が動く馬であり、そこで「主演」している騎手の曾々々孫にあたるのが主人公二人、すなわち兄の「OJ」と妹の「M」ということですから、彼らは史上初の映画俳優ということになり、その貴い血筋をひく兄妹ということです。(ただし、これはフィクションの設定。)
つまり世が世なら映画業界のロイヤルファミリーということである。プリンスとプリンセス。これは、設定あるあるで、よーするに『ブラック・パンサー』のような、王家が流されているという物語。
高貴な一族が今は身をやつし、食うに困る暮らしをおくっている。映画スタジオからお払い箱にされる始末。
いわゆる貴種流離譚は、主人公が王または女王として返り咲いて物語を終えるのが常だと思われますので、さて一体、ここからどうなるのでしょうか。

その「王家」は「ヘイウッド」という姓を名乗っています。
これは「ハリウッド」をモジっているのでしょう。
すなわちヘイウッド家の人々(父、息子、娘)は映画産業そのものを表しているんだろう。
よーするに、兄妹は映画芸術表現の良心をあらわす、みたいな。そういう話だと思います。

空からやってくる敵は一体なんでしょう。
映画の敵。
現代における映画に対する脅威といえば一つしかありません。
インターネット。
YoutubeとかTiktokとか、そういうやつ。
ネットフリックスやらアマゾンプライムやら、そっちかも知れない。
とにかく、ソーシャルメディアっていうのか、そういうやつ。
Google社でもAmazon社でもいい。
とにかく、この映像業界の新参者たちが映画を殺そうとしています。
映画芸術のことも人間のことも、これっぽっちも気にかけない、ミソもクソも右から左へ流して人々の欲望を煽るだけの、中身のない空虚な広告代理店。
それが映画の敵。
それは人類の敵でもある。

本編中、ずっと映画やお芝居のことばかり話をしています。
監視カメラ、フィルム撮影、レンズ、CG、テレビドラマ・・・。
この映画が、映画についての映画であることは疑いの余地はありません。

さあ、ついに映画界のロイヤルファミリーの反撃が始まった・・・というのがプロットです。
しかし、本人たちは何と戦っているのか、何のために戦っているのか、自覚がなさそうです。
長い間、冷や飯を食わされて来て、自分が誰かさえも分からなくなっています。
(目覚めないといけない。しかし目覚めはまだやってこない。)
当人は、バズり動画を撮影してひと山当てようと考えているだけです。
ロイヤルファミリーのプリンセスともあろうものが、良心をまったく失っています。
それこそ、敵(「Gジャン」)の術中に完全にはまっています。

ラストシーンで、プリンセスは敵を滅ぼします。
しかし、誰を滅ぼすことに成功したのか、彼女に自覚はありません。
そもそもの動機が間違っていたのです。
「オプラ級」のショットを撮影することは出来ました。しかし、それこそ生き馬の目を抜くソーシャルメディアの世界のことです。瞬く間に他人に出し抜かれるにきまっています。「ひと山当てる」など夢のまた夢でしょう。
彼女は勝ってなどいません。

結局、どちらが勝ったのだろう。
映画はその答えをだしていないと思います。
両方ともが死んだ(父や兄は死んだようだし、Gジャンも死んだ。)
ただ、自らの秘めたる力に気付いていないプリンセス(妹)が立ち尽くすところで映画は終わりますから、そこに未来があるような気はします。
答えを出して欲しかった、というのは僕の意見。
映画がインターネットに勝つ、すくなくともGoogleやAmazonやNetflixといった敵くらいは、蹴散らすところまで描いて欲しかった。
僕の要望としては、すくなくとも、何らかの希望は描いて欲しかった。
このままでは希望さえ無い。

さて、元子役スターの「ジュープ」は、Gジャンを利用しようとして失敗します。
これは妹エメラルドとまったく同じ行動パターン。
彼の最期、吸い込まれそうになるときには「飲み込まれて本望」とでもいうような複雑な表情を見せていたのが印象的でした。
彼に限らず、Gジャンの胃袋に入った人たちは、キャーキャーとまるでジェットコースターを楽しむ遊園地の客のような歓声をあげています。
きっとGジャンの胃袋の中は楽しいところなのでしょう。
そのへんを描くためにジュープという第二の主人公は登場している、たぶん。

僕はこの映画には納得がいきません。
一番意味がわからないのは、スピルバーグの「ジョーズ」「E.T.」「ジュラシック・パーク」のような、家族で楽しめる怪獣映画を期待した場合に、あのチンパンジーのシーンは見るに耐えないということです。
(さらに、被害にあった共演者の顔面のキズを「見せ物」として提示しているのは、他でもないジョーダン・ピールです。なぜそんな演出をするの!)
僕はこの映画を自分の子どもに観せたくない。
娯楽大作を批判する娯楽大作が娯楽大作じゃなかった・・・となってしまう。
もしかしたら、アメリカではこれくらいの描写は「家族向け」の範囲内なのかもしれない。
もしそうならあまりにもヒドいと僕は考える。

もう一点。
ジョーダン・ピールはオプラ・ウィンフリーを「見せ物をつくる者」と糾弾している様子である。
チンパンジーに襲われた被害者は、オプラの番組に出演したことで知られる。
でも、ピールがオプラをそこまで厳しく批判するというのも、にわかに信じがたいと思った。
なにかがオカシイ。僕が解釈を間違っているのかもしれない。
または、そもそも映画もテレビドラマもトークショーもソーシャルメディアと同じくらいの汚物だとでも言いたいのだろうか。
わけがわからない。理解力が足らないだけかもしれないけど。

とにかく、無駄な情報量が多すぎる。
もっと家族で楽しめる映画をつくったらええやろ!
映画の話をしたいんやったら、映画の未来に一筋の光を見ることのできるような、よきメッセージを発することをなんでしないのか。
批判すべきは「見たい、見られたい人々の欲望」(=Gジャンおよび飲み込まれてゆく人々)じゃなくて「グーグル社」ではないのか!
・・・というのが僕の感想です。

ものすごく善意に解釈するならば、このあとプリンセスが目覚めて、本来の持てる力を発揮するのかもしれない。
続編を待て、的な。
そのとき「映画の復権」があるのかもしれない。
それくらいしか思いつきません。
今日はこれでおわり。

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